間近で演奏を見せてくれたのは、なんと、その道のプロでした。…といっても、実際に見せ
てくれたのはハンドベルの演奏でしたが。トーンチャイムの製造元、鈴木楽器の営業さんが
お連れくださったのです。
どこかでの演奏会の帰りだったのでしょうか、わざわざ学校の音楽室にまで上がってきてく
ださり、私たちのめちゃくちゃな演奏を聞いて苦笑しながらも、楽器の持ち方、上げ下ろし
の方法から、振り方、音の止め方などのごく基本的なことを1時間にわたり教えてください
ました。楽器や歌唱の指導と演奏活動で生計を立てていらっしゃるご夫婦(大石光男・由紀
子両先生)です。今でこそ、専門の指導書や楽譜が出ている楽器ですが、その当時はほとん
どありませんでした。なんと畏れ多くもありがたいことだったかと思います。
その1ヶ月後、見違えるほどまともな演奏を発表できた生徒たちの表情は、輝くばかりでし
た。
その後先生方の演奏を思い出しながら自分たちで試行錯誤を繰り返し技を編み出し(笑)、
いつしか活動の場は校外へと広がっていきました。市民音楽祭・卒業生の結婚披露宴・
老人ホーム・地域の高校が集まる音楽発表会、公民館主催の音楽会にゲスト出演、
そうそう、国道のトンネル開通式のセレモニーでも。
どんな会場でも、演奏中は咳払い一つ聞こえません。観客まで集中して、演奏を終えた途端
のため息は、何よりも子ども達の大きな自信につながりました。
コーラス活動をしていた頃は「笑われるからステージに立ちたくない」と怯えた子達です。
大舞台では、部長は40度以上の高熱でも演奏をしました。そう。あの、無気力の塊だった
部長です。相変わらず授業中には気配を消しますが、彼女に向けられる周囲の目そのものが
まったく違います。
彼女以外の部員についても、トラブルメーカーはもう大したトラブルを起こさなくなりまし
た。病弱だった部員が学校を休むことはほとんどなくなりました。持病の喘息が出ることは
あっても、必ず2日以内に復帰しました。校内・学級内でも活躍の場が増えました。
「奇蹟だ」と思えました。


私が勤めていた10年余りの中で、顧問を務める部活を2度異動しました。
2つの部活はコーラス部でした。その活動内容をトーンチャイム演奏一本に変えたの
は、最初の退職願を却下された翌年度でした。さらにその翌年にトーンチャイム部を
立ち上げたのですが、その頃の数年間が最も生徒から学ぶことがあった時期でした。
退職願を提出した理由は一言で表せるものではありませんでしたが、最終的に理事長兼
校長から下された却下のお達しを飲み込んだのは、一つだけ明確に「やり残した」と感じて
いたことがあったからです。(笑 いばるなー!)
それが、部活。
部活動だけは、どうにも活性化できなかったんですよね。それまで。
その頃の部員はたった5人でした。
その数年前から文化祭等限定で演奏していたトーンチャイムとミュージックベルは、
他校にも経験者はおらず、たとえ自己流でも下手でも誰からも笑われることがありません。
私が課外授業や学級活動、会議で部活に顔を出してあげられない日でも、楽譜もろくに読め
ない生徒たちがなんとか練習を続けることができていた楽器です。
トーンチャイムという楽器は、ハンドベルと同じ仕組みの楽器です。片手に1本から2本の
それを持ち、正しい方向に振れば音が出ます。最初はそれさえ難しかったので、どんな方向
にでも振れば音が出るミュージックベルをコーラスの合間の活動に入れていたのですが、
人数が少なくなった上に、まともに音符を読める部員がいなくなった状態で指導者不在でも
コーラスの練習をすることには無理が生じてきました。
そんな中で部活を活性化させるためには、生徒たちだけでも楽しめるものを体で覚えさせる
しかないと考えました。
当時の部長は2年生でした。3年生がいなかったのです。
彼女も授業中には存在の気配すら消し去ってしまう程度の力しかありません。体力も気力も
さほどになく、部活動のある日を除いてはよく早退や欠席をしていました。
退職について、自分の中ではほとんど決意を固めていたその年の1月、ある人から
「本当に心残りはないのか」と尋ねられた時、浮かんだ顔はその部長でした。
もしも自己流の演奏活動さえも引き継いでくれる後任の先生がいなかったら、この子の活躍
の場はどこになるのだろう?…答えは出ませんでした。
よく保健室に通い、遅刻してくるその子の無気力感と、部活練習中の小さな喜びに笑う顔を
思い浮かべると、このまま辞めることには後悔がつきまといそうだ」と震えが来ました。
「あの子、卒業を諦めるかも!!」そして、退職願不受理をありがたく飲みました。
その部長以外の部員も、決して安心できる存在ではありませんでした。
トラブルメーカーもいれば、部長よりもさらに病弱で無気力な子もいます。しっかり者だけ
どできれば人前に立ちたくないという者も、まったくの音痴も。ただ、トラブルメーカー以
外は部活を休むことがありませんでした。
トーンチャイムという楽器を、自分たち以外の人が演奏している姿を見たのは、私たちが
その活動を始めてから3年ほど経ってからでした。
認められるようになって、練習も高度に厳しく濃密にすることができました。
テスト前2週間と週に1日以外は、毎日、遅くまで練習します。筋トレ・基礎練習に1時間
かけてから、曲の練習。まさに私が望んでいた「普通の」部活動の姿です。
英単語一つさえ満足に覚えられないあの子たちが、あの複雑な仕組みと10以上に渡る曲を
よく覚えられるものだと、今思い出しても不思議なほどです。専門的な知識がなくても、
学力が極端に劣っていても、人間は求めて諦めなければ出来のだ と、そして、
人は必要とされれば不可能を可能にできるのだ と 子ども達に証明してもらえました。
中学時代までは人に認められる経験をほとんどしてこなかった子たちです。コンプレックス
の塊は、自らその塊を砕くことができるのだと教えてもらえました。
これが、教師としての学びの、大きなものの一つです。
教師としての学び ~生徒は変わる~